「葬儀は必要」の自論

のぼりとの杜コラム

火葬が終わりお骨を胸に抱きかかえ安堵の表情で喪主様が戻ってくる。

通夜、葬儀いや、ご臨終の瞬間からご家族は悲しみや心の痛みと向き合い始める。人によってはその前の闘病中から始まっているかもしれない。そんな心中と拝察しながらも葬儀の打ち合わせは進む。とりわけ喪主になる方は忙しく、慌ただしくなる。それでも故人様のお身体がある限りともに時間を過ごしてもらいたい。
喪主様は気丈に振舞う方が多い。通夜、葬儀中と周囲への気遣いやお寺様のお付き合いなど役割は多岐に渡る中で悲しみばかりを見せてはいられないと思うのだろう。気持ちも張っているはずだ。
そんな喪主様も葬儀が終わりお花入れとなり、徐々に出棺の時間が近づくと悲しみが一気にこみ上げてくる。これまで気を張っていた糸がプツンと切れたように…。喪主になる方は故人様との関係性が一番深い方がなられるケースがほとんど。最愛の…と呼ばれる方も多い。妻の葬儀なら夫。夫の葬儀なら妻。誰よりも悲しみが深いはずである。気丈に振舞っていても、さようならの現実には逆らえない。

私は火葬が終わり骨壺に眠る故人様を胸に抱き収骨室から戻られる喪主様の表情を見るようにしている。安堵の表情で戻られたときが一番ホッとする。故人様としっかりお別れができ無事に送り出せた満足感もあれば葬儀を終えられての任務達成感もあると思う。憶測でしかないが、私は「あぁ、葬儀ってやはり必要だな」といつも思う瞬間。この安堵の表情に葬儀の意味の全てが集約されている気もする。

これまで、多くの葬儀をお手伝いさせていただいたが、葬儀後に「葬儀はやらなくてもよかった」とは、言われたことも聞いたこともない。(私の耳に入らないだけだろうか)
その逆の葬儀をしなかった方からは「葬儀をやればよかった」の声は実は多く聞く。
葬儀不要論を唱える人もいる。しかし、私は葬儀は必要派だ。この仕事をしているからではない。
臨終の瞬間から故人様と向き合い現実を理解する。当然、悲しみはあるが別れの時間は必要で受け止めてもらう環境も必要。葬儀後に安堵する表情が自然と出るのはこのプロセスがあるからこそだと思う。
これからも安堵の表情を浮かべてもらえるお手伝いをしていきたい。